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一気に低下の認知機能 94にもなれば‥

[2026.04.12]

表題を見て、いつもblogを読んでくださる常連の患者さんはピンとくるかと思います。父のこと。最近、主人公にしてblogに書き込むことはなかったから、私の日記をかねてのblogだし、似たような状況にある介護者の参考になれば‥。

4月23日には94歳になる私の父。私の開業までは、今はクリニックとなっている実家に、母亡きあと、独居生活を送っていた。クリニック建築始まってからだから、かれこれ10年近く父と同居していたことになる。小学校高学年辺りから塾、部活、大学は群馬で、東京に戻っても、私は職場優先で点々と都心で生活。父は父で、ゼネコンの営業マンだったから夜も遅く、あまり接点はなかった。 80過ぎた父との同居。この数年は介護が主だけど、それでも「このタイミングだからこそ聞くことができた」というような様々な話もできた。同居したからこそ、「私の父親像は母のフィルターを通してだった」と再認識し、私の父親像も変化した。東京に憧れ、大学から上京し、昭和の激動のなか、家庭を構え、2人の子供を育て上げた。その事実の裏には、父なりの娘や家族への想い‥お互いこの年齢になってからの年余にわたる同居だったからこそ、聞くことができた。

そんな父も90過ぎてからは、なだらかな下り坂というより、階段を下るようにガタン、ガタンとある日突然、といった具合の低下を来す。昨日までと今日とで、できていたこと、認識していたことが出来なくなったり、わからなくなったり‥。

昨年夏は、失禁や、自分が今どこにいるのかわからなくて混乱来すことあり。以前から老人ホームのお試しをするも拒否状態、「家で迷惑かけんようにするからここにいる」と。できるうちは良いが、ここまでくると私も限界にちかい。ケアマネさんと相談(父の状態や私の仕事の状況も常日頃から連絡しておくと適切なアドバイスをいただける)。 介護認定の変更を依頼し、介護1から3へ。 「まだ、できることもあるから、ショートステイや老人ホームより、デイサービスで、宿泊もさせてもらえるところがあるからそういう施設を利用したら?」介護認定があがると利用できるサービスや回数も増えるので、そうすることにした。幸い父が気に入る施設もみつかり‥。また、介護経験のある複数の患者さんから「本人が望まないなら、老人ホームにいれっぱなしじゃなくて、少しでも家に帰ることができるということが、安心に繋がるみたい」というアドバイスが、私の背中を押してくれた。 とはいえ、認知機能は低下の一途。冷蔵庫と電子レンジの区別が時に、わからなくなることもあり、たまに一緒にいても、ボーッとただ座っているだけ。私や母の名前もわからなくなる‥「そろそろ限界かな?」同僚の先生に話すと「仕事しながらじゃ、要介護3って、施設にいれるか家でみられるかの瀬戸際」そう言われる。  そんな中、先日高熱と咳。 度重なる誤嚥性肺炎だ。とろみ食は嫌がるから好きに食べさせているから仕方ない。私だって同じ状況なら好きなもの食べて死んだほうがまし、と思うから。 年に数回、どかんとくる。最近は「入院させても抗生剤点滴だけなんだからクリニックでフォローして」と、以前の入院先でいわれて以来、我がクリニックでのフォロー。今回の熱発は、我がクリニックにつれてきても、はじめて訪れたクリニックと思っている。「地面はおとうちゃまのものよ!」言ってもピント来ないみたい。去年のミモザの時期は、花の下で草むしりをしてくれていたのに。1年での変化に一抹の寂しさも感じる。 幸い気がつくのが早かったのか、熱はすぐに下がり、全身状態も回復となったが、ますます認知機能は低下したみたいだ。ストレスが身体に加わると認知機能も低下傾向になる。おまけに現状把握のために撮影したCTでは、小さな肺癌まで見つかる。私たちならたぶん1期。よく見つけたね‥と、診断つけて治療に持ち込む病変だ。若ければ。もちろん、誤嚥繰り返し、肺気腫まである93歳にはなにもしないし、本人にも知らせない。  先週は、デイの迎えが来たら、つい先日までは外に出ていけたのが、それもできたくなったみたい。抱えて連れ出さないと。

「三才児を1人にしておくのと同じこと!1人にしない方が良いから、施設にいれた方が‥」と、いつも診察にいっている認知症外来の先生からは、今回は強く言われた。確かに‥。洋服も後ろ前なら早く起きて身仕度手伝い、夜はトイレの電気をつけて開けっ放して、間に合わずに失禁するのを防ぐ‥そんなアドバイスをいただくも、とにかく1人にしておくのが、半日でも無理になってきている。 幼児と同じ。

今すぐ環境変えると益々おかしくなりそう‥ 老健施設は申し込んで、たとえ順番待ちもことうまく運び、入れたにせよ、3ヶ月で出される。 「デイサービスで泊まれる施設は父も気に入っているから今の環境変えたくないんだけど、隙間のように1人の時間があるから、そこが問題…」そう伝えたところ、認知症外来の先生からは、レスキューとして、「訪問看護」の利用のアドバイスをいただいた。1人時間を自立支援して、看護師さんが家から連れ出して散歩したり、何より話し相手になってくれる。 翌日、ケアマネさんに話すと、そのアイデアはなかったみたい。  さあ、これからどうなるだろう。

まともな父と同居した数年間、今の私は、父と、亡き母の二人三脚で成り立っている‥ しみじみ私は感じる情報を得ることができた。「高級なことはしてやれんかったけど、おとうちゃまなりにがんばったんだよ」かつてそう言ってたっけ。確かにそう。終身雇用で、あの時代のゼネコン畑で生き抜くことは並大抵ではできない。 私みたいにでしゃばりじゃなくて控えめな父。営業はきつかたんじゃないかな?   数日前、私の名前を忘れた父、「ごめんね、ごめんね、ふるさとの(宮崎を忘れている)いいところからつけた名前。あんたが生まれる前から心の中で決めていたんだ。外に出る人間になってほしいって。おかあちゃまには言わんかったけど、生まれてから聞いたら、いいよって言われて、嬉しくてつけたんだ‥でも、思い出せないんだ」うっすら涙までうかべている。 初めて知った。二人で話し合ったのかと思っていたが、父の希望を母が賛同して…。「子」がつく名前全盛の時代。「子がつく名前が欲しい」誕生日のプレゼントにリクエストしたっけ。男の子にイジメられたから。「ちほだって。気持ち悪いって。」そんな思いでもどこへやら、今じゃ屋号にしているくらいだけど。 千穂っていうんだよ!  ああそうだ。いい名前だ。父はかみしめるように呟いた。

 とにかく、どうするかは…皆の知恵を借りながら、寂しくないように、苦しくないように、今日一日一日穏やかに、残る余生過ごさせてあげたい。今の状況を、かつての父と照らし合わせて悲観するのは無意味な行為。開き直るのも介護には大切。 つくづくそう思えてきた今日この頃。色々忘れたりできないことあっても、ふと、口にする思い出したことが、はじめて聞くことならば、それがこれから生きていかなければならない私への、キラキラ光る宝石のような宝物になるに違いない。

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