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開業決めるまでの裏ばなし

開業決めるまでの裏ばなし~その1~

[2018.02.17]

今日は実家近くに眠る母のお墓にお参りの後、父と現地を見に行った。完成を楽しみにしている父、「あと5年はどうしても生きなきゃ!」最近よく耳にする言葉。「僕が言い出しっぺだからちゃんといく末、見届けないとあの世にゃいけない!」次にはその言葉がもれなく続く…
「そんな…開業を決めたのは私。何があっても私が責任とるのだから気にしないで!」齢85となる父の生きるエネルギーになればいいやと最近は父の言葉も聞き流すようにしている。
 しかし父がそういうのも無理はない。ちょうど2年前、やはり寒さのしみる真冬のある晩、父が呟いた一言で大きな方向転換となる舵を伐ったことは確かな事実なのだから。
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あんたもそうやっていつまでも内視鏡ばかり出来るわけでもないし毎日電車に揺られて出かけるのもしんどくなる時が来るでしょう?一線退いたらここを改築なり増築して診療所開けば廻りに人が来るから年取ってもさみしくないよ…」
その頃私は週1、2ペースで独居を続ける父の様子を見に行っていた。たまに晩酌につき合うこともあり。その日も特に変わったことなく、いつも通りに飲んでいたほろ酔いかげんの父がふと呟いたのがその一言。
お父ちゃまの方がどう考えたって棺おけに足突っ込みかけてるんだから…私は大丈夫!心配ご無用よ!」びっくりした私は気の利いたことばどころかそんな憎まれ口とともに一蹴した。父もそれ以上なにも言わず。
しかし、父の呟きはその後暫く私の脳裏から離れなかった。
「そうなんだ…この土地、やっぱり私が売らずに残してくれると思っているんだ~」
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私の実家…あしかけ築50年すでにボロ家。冬はすきま風のせいか、いつも寒い。積もりつもった荷物でむしろゴミ屋敷と言うのが妥当?父もよく住めたものだ。母が他界して遺品整理もおざなりのまま。父は自分の家だからと頑として私との同居は望まず、そのくせ、自分がいなくなれば、死人に口なしだから土地はどうしてくれてもよい…ずっとそう言い続けていた。なので父の言葉は私には意表を突くものであったわけだ。
 しかし…宮崎から学生時代に単身上京し、母と知り合い二人で手にした土地、二人の娘も育て上げ、父にとっての故郷はもはやこの地。
娘が有効活用してくれれば願ったり!そんな思いもあったのかもしれない。
口下手な父の本心はなんの前触れもなくこうしてやってきた。
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「お父ちゃまったら、私が婆さんになったら実家で開業したらなんて言うからびっくりだよ!あの土地維持して、売ってほしくないみたい。」妹に投げてみた。「私も実はそうしてほしかったの。嫁にでたから土地についてはお姉ちゃまに従うつもりだけど、私たちにとっても故郷、なくなれば寂しいよ」「それに…もったいないよ、お姉ちゃま、せっかく内視鏡だけじゃなくて、漢方やったり外来もバイトでずっとやってんのに。バイトの外来じゃ中途半端だよ!開業したら?」
妹に私の生きざまが中途半端と言われるのには心外だったが、家族がそれぞれの立場で色々考えてくれていたことは驚きだった。
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私自身、折しも人生半ば、「このあとどう仕事をしていくのが私らしく、充実してたと生涯の終わりに納得できる生き方なんだろう?」漠然と考えていた頃だった。
人がなんて言おうと今の仕事に充分満足している。内視鏡だけでなく、学んだ漢方も取り入れての外来診療。くたびれ果てるまで内視鏡は続けるつもりだし、納得できる生き方の模索も今のスタイルの延長にあった。「開業なんて、それができる器の持ち主がやること」私には到底無理な発想と、今まで考えてもみなかった。しかし、父が言う、現役引退したらでは体力的に無理。現実的ではない。考えるなら今しかない。私にとっては異次元の、できっこないと考えてもみなかった選択…徹底的にできるか否か考えてみよう…そうして選んだ道を迷いなく進めば後悔ない…
こうして、ちょうど二年前の冬から、とりあえずここに至るまでの道のりがはじまったのだ。
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今日はここまで。数日内にこのあと二年間の動きをまとめることにしよう。
足跡を残すのは後世の自分のため、今なら要所のキーパーソンの放った言葉も頭に残っっている。そしてここに書き連ねたことは、似たようなこと考えつつも、どうしてよいかわからない人にアドバイスになるかもしれないから。 

開業決めるまでの裏ばなし~その2~

[2018.02.23]

「実家開業を人生の選択肢として検討…」課題はできたものの、はじめの一歩、つまり具体的に何をどうとりかかればよいのか皆目見当もつかない。ある日突然、バイト先の診療室みたいな整ったブースが「こな、出ました~」なんて降ってくるわけではなく…とりあえず私の近況知る大学時代の仲間に相談してみた。「それもありかもね…。まず保険医協会に入会してみたら?色々勉強になるよ。勤務医は入会金も安いし。」呑気な私は勿論その時までそういう団体の存在すら知らなかった。
開業医の実務のアドバイザー団体だ。これから開業する先生向けのセミナーなども定期的に行っている。私は早速入会し、新規開業医向けセミナーのほか、ちょうど二年毎の診療報酬改訂時期だったため新点数説明会など、既に開業なさっている先生が足を運ぶ場所にも顔をだし、傾聴した。門前の小僧状態ではあったが、ここで勤務医と開業医の決定的な差を見せつけらた。開業するとなると、専門外は誰かに丸投げ!という訳にはいかない…経営に関わる診療報酬のこと、人を雇えば労務管理…自分の箱、つまりクリニックの中のことは隅々まで目を光らして把握しておかねばならないわけだ。あたりまえだけど。今までみたいに「患者さん診て薬だしておしまい」「大腸ファイバーでポリープとってはいおしまい」という訳にはいかないのだ…「私にできるのだろうか…」暗雲たちこめる…。
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また、平行して保険医協会以外にも民間会社の主催する開業セミナーなどにもボチボチ顔を出した。私の場合、「実家が医療活動に可能な立地であるか?」の客観的意見が必要だった。何人かそういうセミナーで知り合った方々が我が家を見にきてくれた。そこでの評価はすべて一致した意見。まず耐震上、改築や増築は土台無理、これは当たり前。立て替えを前提とした話の中でも「閑静な住宅街だけど開業には…駅チカでも引っ込んでいて人目にはつかない。多額の費用をつぎ込んで家を建て替え、クリニックにしても、かけただけに見合う集客は100%無理。リスクが高い」というものであった。
さらに私にあった開業スタイルは「人目のつく場所での上部、下部内視鏡を主体とした診療」これも誰もの共通した意見。せっかく今まで積み重ねた技術、特に女性患者さんは女医さん希望も多い…どれも説得力ある意見だった。
「私たちの発想は専門家に言わせるとあり得ないのかな…」何だか故郷が可哀想になってくる…
また、そんな折、近しい友人の「誰かに言われてとか、家族の想い…そんなお涙ちょうだいじゃなく、自分がやりたいのかどうか、金丸の話聞いていてもいまいち、見えてこない」とか「本当にやるからには成功するという相当の覚悟がないとだめだよ…」当時の迷う私には手厳しいアドバイスだったが正論だ。ありがたい、はっきりいう友人は。
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いずれにせよ、考え始めたのだから「実家開業無理」と決めつけずもう少し開業について模索と勉強してみることにした。今日はこの辺でまた、次回に…

開業決めるまでの裏ばなし~その3~

[2018.02.26]

当時の父は自分の投げかけに私が呼応し、かつ、考えるなら今がタイムリミット!と情報を集めていることに驚きながらもニコニコしていた。けれど「実家開業=リスク」が来た人すべての共通見解となると、いつしかしょんぼりモードに。「もう僕は何も言わないから…やっぱり死ぬまでここに住むから…」娘にリスクを負わせては…それだけはならないと考えていたようだ。父の背中は小さい…。
私は私で「テナント借りて上下部内視鏡…開業という選択肢をとったときの理想のスタイルはこれしかないのかな?」今振り替えると、このころ私の考えはベクトルの方向が別を向きかけていたようだ。たしかに今まで「女の先生に検査してもらえて良かった!」患者さんの、特に大腸検査終了後のその言葉にどれだけ遣り甲斐を感じてきたことか…もし開業するなら本来やりたい私のスタイルはそれなのかもしれない…特に大腸は夢半ばに逝ってしまった同志の分まで頑張ると心に決めてやって来た仕事…。思案は続く。
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しかし、上下内視鏡をやるとなれば相当の広さが必要だ
。加えて従業員も沢山雇わねば…しかも検査の介助歴のある…そして何より大腸はひとつ間違えば事故と裏腹。腸壁は薄い。いくら承諾書とっているとはいえ万難排して臨まねばならないのは周知のこと。それでも万が一のときの医療連携は?
考えれば考えるほど話は大掛かりだ。そもそも資金は?莫大だ。実家を賃貸住居にしてその上がりでクリニック経営??
それはあまりに危険…。私はその方面の経営のプロではないし。
雇われているからこそ遣り甲斐を感じている仕事も、もし自分が経営者となるとそうも言ってられなくなるかもしれない…。
考えているうちに消化器内科の私が言うのも何だが、鳩尾の辺りが痛くなってきた。数日間ずっと…患者さんがよくいう「ここに胃があるってわかるんです!」っていうやつ。この時私はPPIの速効性を身をもって体感した。同時に「想像しただけでもすぐに身体に変化が起きてしまうなんて…身体の声を信じよう!やっぱ私にゃ無理」心の澱もすっと溶けていった…
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「実家での開業」もう一度原点にたちかえる。なんだか素っぴんで等身大で生きることを許されたようなのびのびとした気持ちになってくる。
テナント開業にいかに窮屈さを感じていたのか、自分を解放して改めて感じる。
そう!この頃私の気持ちにも変化がが起きていた。考えるはじめのきっかけは人からの意見だったかもしれないが情報集めに奔走するうち開業が「自分がやりたいこと」に変化しはじめてきた。育ったこの土地に戻り開業~これは私にだけしかできないこと。幼い頃に、ありったけの人形集めてありったけの箱とハンカチでベッドを作り、妹と病院ごっこを(看護婦さんごっこだったかも?)した私が、同じ土地に今度は40年以上の時を経てほんもの作る、その後の学生時代の成長で学んだこと、そして社会人、専門職としての経験、得た知識、今までの私の人生のすべてぎゅっと詰め込んだ小さなクリニック~風化していた記憶がふと蘇ったこともあり、夢は広がる。頭の中で人生のシナリオがどんどん作られていく。迷っていた「人生節目の道定め」の方向が見えてきた気がした。いつから「安全」な道しか選ばなくなったんだろう?挑戦もありなのでは?
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「自宅開業がリスク」というのは、私の場合、建築に費用がかかり、そのわりに集客が望めない場所だから…というのが理由だった。仮にアラブの富豪が同じこと考え投資すりゃ、ただの火遊び程度のいたづらに過ぎないものが、私がやるとなれば、それはとたんにリスクに変わるわけだ。ならば建築費用を抑えれば…プレハブだって…保健所や国の基準さえクリアすればよいではないか?「引っ込んだひと目につかない」と言っても今やスマホ片手にピンポイントで現地に直行可能な時代だ。
やり方考えれば、あながち捨てたものでもないのでは?
しかし、ひとつ気になることが。開業講習の中「区や市の境での開業は要注意」ということがあった。検診や予防接種が相互乗り入れしていて、どちらの市区町村で受けても可能ならよいが、そうでないと自分の市からの認知度が低くなるらしい。
そこで私は国分寺と府中の両方の市役所と保健所から情報を得ることにした。この地区は検診の相互乗り入れはしてないが予防接種は可能…さらに話を進め、双方担当者の話を総合すると、どうもこの地はそう捨てたものでもなさそうだ。なにより…実家に戻ればこんなおばさんにも「あら~千穂ちゃん~」ご近所さんとの挨拶は昔のまま。まだまだ元気な昔のままの人が集う私の故郷。開業するならやはり、ここがいい…やるなら今だ、今しかない。
セミナーの雛壇で開業成功秘訣を話す先生でさえ「スタッフ集めは一苦労。落ち着くまで3年はかかる」「開業当初のスタッフはみんなやめた」「開業したてのころ、新患の患者さんかと思って喜ぶも、入ってきたのは製薬会社の人なんてことがしばらく続いた…」そうなんだ…皆同じような苦労をしている。それを解決しながらひとつひとつ積み重ねて行けば…勿論、不運にも閉院せざるを得ないケースも存在するのも事実だが。
このころ聞いた話は私の背中を押してくれるものだった
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こうして自分の決意は固まりつつあるも、独りよがりは危険。最終的には資金がからんでくる。そこで私はお世話になっている税理士さんに相談することにした。ちょうど去年の年明けた頃、考えはじめて1年位した頃だったはず。
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あと、二回くらいで裏話から現在進行形に追いつくかしら?週末の隙間時間でここまで書き、1年前に時間が巻き戻り今日はおしまい。
週末実家の写真。基礎工事の最中らしい…

裏ばなしの裏ばなし~そして決意~

[2018.03.29]

二年間を振り替えると前回までの話が全体の流れ。

裏ばなしを完結するにあたりどうしてももりこんでおかなければならないことが最後にひとつ。今年のはじめに起きた、私にとって、おそらく今年一番のサプライズ。
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年明けてまもなく、お清めをした日、私はご近所に挨拶に行った。これから家の解体から始まり騒々しくなることのお詫びとクリニックの宣伝も兼ねて。順に従い前のお家にもご挨拶。「まあ、お母様の希望叶えたのね!」
「えっ?そうなんですか?私はじめて知りました!母がそんなことを?」
私のあまりの動揺ぶりにその奥さま、言い出したことに責任を感じてしまったのか「きっとお母様、プレッシャー与えちゃうと思って言わなかったんじゃない?
でもたしか…まだ千穂ちゃんが学生のころ、群馬に戻るのを見送ってた時に玄関先でそんな話したの覚えているから…」記憶の糸をたぐりながら話してくださった。
「そんなのはじめて知ったよ~なんで言ってくれなかったの??私ちっとも知らなかったよ~」 
瞬間、母の思い出が次から次へと頭に浮かび、下唇をぎゅっと噛んでないと今にも…
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そう私は母親っ子。とても仲が良かった。いわゆる姉のよう母。性格も似てるから喧嘩するとちょっと大変!でもそんなことめったになく、従って国内外問わず2人で旅行することは数知れず。社会人になってからも時折ふらりと実家に帰っては、母のおいしい手料理をつまみにたわいない話で盛りあがり飲み明かし、朝刊を配るオートバイの音で「あれ、日にち変わっちゃったね…」なんてこともあったっけ。
私に「ここで開業したら?」そう切り出すチャンスはいくらでもあったはず。なのになんで話してくれなかったんだろう…
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 そんなことを考えながら、この日最後、うちから少し離れたとあるお宅へもご挨拶。今風に言えば、母のいわゆるママ友、私が小さい頃からの。私ををつれて電車を線路端で見ていたときに知り合い、それからのお付き合いだったみたい。今回お会いするのは母の葬儀以来。玄関開けたとたんの久しぶりの来訪者におばさんは驚き、事情を知ると泣き出した。「まあ、せつ子さんの夢がかなった!良かった!」ってしきりに。「えっ?ここでも話してたの?」もう、こうなると止まらない。さっきは我慢できたけどもうダメ、もらい泣きじゃなく、自然に頬までこぼれてしまう。「私はさっきはじめて知りました。そんなこと話していたんですね…」「あなたが大学に入ってすぐの頃かしら、卒業していつかは戻って地域で仕事してくれたら…って話しておられたのよ」
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「何で言ってくれなかったの?」その想いが頭をくるくる回る。「あらかじめ頭の片隅にあればもしかしたら、少しかわってた?」
ふと生前の母の言葉がよみがえる。「貴女の世界のことはわからないから…」だからいつも自分で決めて家族へは事後報告。医局に入る、専門決める、大学院…すべてそう。まあ、社会人になりゃそんなもんだ。そんなときもニコニコ聞いてばかり、母なりの期待や想いがあったことは少しも知らず想像すらしなかった。じゃ遺言は?…途絶えがちな意識のなかでも最期の頃はひたすら「楽しかった~」「力強く優雅に生きて!」ずっとそんな言葉を繰り返してばかりだったような…。
最近忘れかけていたけれど「優雅に力強く」母が遺したその言葉の意味を、死後しばらく考え続けこともあったっけ。
「娘に言いたいことも言えなかったなんて、ちっとも楽しくなんかないよ!」「こうなると早くにわかっていれば…見せてあげたかった~」最愛の母へ成し遂げなかったことへの切ない気持ちで胸がいっぱい。苦しい…。
以前小畑さんが作ってくれた地図上の診療圏の丸い円が父曰く「母の自転車行動範囲」だったことが思い出されると、それがたとえ偶然の一致にしろ、よけいにもう、たまらない…
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後から父に尋ねると、二人でそういう話をしたことは一回もなかったと。父も意外そうだ。「僕はあんたが大学に入った時、これで資格を取れば一人でも食べるに困らない」まずそう考えたそうだ。終身雇用で退職までしっかり勤めあげたならではのごく当たり前な考えだ。
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でも…
私が開業を決めなければ、今日聞くことができたこの話もずっと耳にすることなくそのままだったかもしれない。
それに…
最終的に自分で決めたことが母が希望していたことだと知ると、何だか間違った方向には進んでないかも…少し回り道したかもしれないけど…そんな気がしてくる。
もうこうなったらとことん頑張ってみよう。とことんやってうまくいかなきゃそれは仕方ない。やらない後悔よりやって後悔の方が私らしい!母の言葉を胸に、真冬の群青色の夜空を見上げてそう誓った。母も空からきっと見ていてくれる!
 優雅に力強く!やってみせるね!
 
 
 
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