メニュー

まだ、大丈夫?

[2024.04.28]

4月なのに真夏日? この暑さ、先週の日曜日だったら、恐らくウルトラマラソン、かなりきつかっただろうな‥100キロ、あそこまで気持ちよく、好タイムで走り終えたかどうか‥ この一週間はそんな達成感の余韻であっという間に過ぎてしまい、気がつけばあらあら、ゴールデンウィーク。クリニックは暦通り、やってます。更に5日の(日)も開院する予定‥。今年は久しぶりにコロナ診療からは解放されそうだし、マイペースでボチボチ診療できそう。マラソンと同じだ!

さて、今日のblogもプライベートな日記記事。なぜなら、ずっと後になって「あんなこともあったっけ‥」と、思い出す事件あり。まだ、記憶や感覚が鮮明なうちにかきとめておかねば。

話しは今年の2月23日に遡る。この日は天皇誕生日。なのに朝から極寒。雨降りだった。祝日でクリニックも休診。私はこの日午後から声楽レッスンのため横浜へ向かっていた。 レッスン前についでの用事をすませようとした出先で突然スマホが鳴る。表示は正俊。わが父から。ご存知のblog読者もおられると思うが、同居している父にも声楽は身体にも良いからと、先生に頼み込んで個人レッスンをお願いしている。かれこれ3年以上続いているのでは?上達のほどはさておき、発声が大事ということで。 そんな父はいつも私より先に行って1時間ほどレッスンをうけている。この時間ならレッスン中のはずなのに電話?どうしたのかしら?もう終わったからどこで寄り道してる、あんたの番とせかす電話?‥ 「おとうちゃまだけど‥今どこにいるかわからなくなっちゃった!」 瞬間、私は凍りついた。とうとう恐れていたことが起きてしまった! レッスンどころか、迷子?いつも1人で行かれたはずなのに! 認知症の症状のひとつとして、ある日突然出先で自分がどこにいるのだか、わからなくなることがある。 ダンスにカンツォーネ、はたまた、草むしりにわがクリニックに来るときも、いままで勿論迷子なんてことはなかった。それなのに‥「いよいよか‥」とっさに私は父の携帯物に住所記載したものあったかしら?と思い巡らす‥こちらもかなり困惑しつつ「どこにいるかわからないってどういうこと?」 でも‥考えてみれば迷子になったと私に連絡するくらいだから、そこがまともなところが何だか辻褄あわないような‥。「自由が丘で来た電車に飛びのったら、横浜にはいかなくて変なほうに行っちゃったから、何とか途中で降りて、今やっと横浜駅に着いたんだけど、いつもの風景と全く違うから‥」そこまで聞いて一瞬にしてへなへな力が抜けた。安堵。ひと安心。「父はまだ大丈夫だ!」 というのも、数年前からだろうか、相鉄線が東急に乗り入れるようになった。私も一回間違えたことがあるが、相鉄線に乗ってしまうと横浜には行かず新横浜から相鉄線方面に行ってしまうのだ。 恐らく父は自由が丘でいつものホームに来た電車に飛び乗ってはみたものの、やがてみたことない風景に気がついて、途中の駅から何とか横浜線か地下鉄で横浜まで戻って来たのだろう。降りてはみたものの、横浜は巨大化ターミナルステーション。いつもと違う路線で出口を出れば、余程こなれてなければ道に迷う。むしろ、横浜駅までよくたどり着いたと感心しながら父の話をさらに聞く。「交番で聞こうと思っても今日はお休みみたいで誰もいないんだよ‥」「んなわなけない!見回りに出ていて不在なだけよ、交番が休業なんてあり得ないでしょ!」父の発想に笑う余裕もでてきた。 普段乗らない電車で横浜駅についても出口がわからなくなるのは、当たり前。私も向かう最中でどこにいるとも知れない父と待ち合わせる術はない。可哀想だけど人に聴きながら、知っている東横線の改札口まで行って、そこからいつものルートでいけば先生の家にたでりつくはず‥。「とにかく東横線の改札口まで行けばいつものルートで先生の家にたどり着くだろうから頑張って!」そうエールを送るしかなかった。おまけに‥「先生の連絡先知らんからあんたから連絡しておいて!」意外にしっかりしているかも!!  電話を切ると、気がつかなかったが、先生からは、約束時間に来ない父を大変心配してくださって何度もメールや不在着信が入っていた‥ 先生に慌てて事情をお話ししたところ、タクシー利用のアイデアを頂き、先生と私で父の携帯鳴らすも出ない! これもいつものパターン。一度使うと、ぶっとい指が消音かスヌーズボタン押してしまうようで、二度と出たためしがない。あーあ。 1時間くらい経過しただろうか‥まだいらっしゃらない‥心配もピークに達した先生とやりとり、ちょうど私も駅から先生宅に捜索しながら向かう途中「あっ、何だかゆらゆら黒い傘がゆっくり坂を上がってきて来ているからお父様かも!」窓を見ながら話しているだろう先生の声が。 間違いなく父だった。 それからほどなく私も到着。 先生も安堵したようで「大冒険でしたね‥それにしても乗り入れの相鉄線から横浜駅まで戻り、ここまでこられたのだから凄いわ!」私のレッスン時間を父に充ててもらって歌う姿を見ていたが、歩き回ったわりには元気に声出し。安心したのかな? 迷子になり相当途方にくれたみたいだったから‥‥      それからちょうど2ヶ月後の4月23日、先日92歳となった父。 自分の誕生日もこちらが言わないと忘れている。 「80台は緩やかなスロープ。90過ぎると1歳毎に階段降りるように弱っていく」って介護をしている方から聞いたことがあるが、父を見ていると、深く納得できる。昨年までできていたこと、覚えていたこと、今はおぼつかないこと多々。私が1分で済ますことも父は5分以上かけてゆっくり‥。イライラすることも多々‥。私はせっかちだから余計に感じてしまうのだ。仕事しながら父との同居も負担がないといえば嘘になる。 癌で他界した母の終末の数年を見守ったのだから、父も同じように他人に任せるでなく、きちんと看なければ‥という想いもある一方、ホームに預けて自分の生活見直したい、私も若くないし、今しかできないこともあるし‥ そんな想いも時にウェーブのように押し寄せる。   でも‥‥またまた、電気つけっぱなしで寝ている父の寝顔、私の「補聴器ちゃんとつけてる?」の声に「ちゃんとつけてるよ」(なぜか最近は片方しかつけない)つけている方の耳をこちらに向ける仕草‥目にする姿を見るにつけ、父がここにいたいというなら、自分の負担軽減を優先したら、後悔しそう‥まだ大丈夫? まだ大丈夫! そう信じて生活共にするのがいいみたい。    92歳。私がそこまで生き延びるかもわからない。フレイル、誤嚥‥悲しいかな、少しづつ機能が弱る人間の姿、勿論機能維持のための努力は必要だが、つぶさにそばで観察することは娘として、内科医としてきっと必要なことなのだろう‥。

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME